今日は私の部屋から見えるミンガラ市場の話です。2度の大火事にあって、全く更地にして現在新しい建物を建築中です。 今も時々ですが停電はあります。10年前は計画停電と言って1日の半分が停電の時期もありました。ひどい時は、3日間連続停電も経験した事があります。 1回目の火災は、よくありがちな原因です。電熱器でお湯を沸かしている途中で停電になり、そのまま店を閉じて家に帰ったのだろう。夜中か明け方に電気が来て、(ミャンマー人は停電が解除されることを、電気が来たと言います)それで電熱器が加熱して、近くにあった紙か布などが接触して火が出たのだろう。営業中は、店と店は密集して通路も狭く、通路には荷物が置かれて、店員はその通路に低い椅子に座って昼食を食べている。いつ行っても品物と人間が山積みのカオスだった。
2010年4月5月に、その年は記録的な猛暑で、40度を超えることもあり、38・5度以上の日が45日以上続くという、炎熱地獄の日々が続き、クーラーが嫌いで冷房施設のない部屋から、パノラマホテルに10日間避難していたのだ。ホテル生活も長引くと面白くないので、友人とグウェサウンビーチで4日間ほど過ごした後、友人の車で戻ってくると、友人が指差して、「清岡さん見て!火事だよ!」という声に前方を見ると、ミンガラ市場から黒煙と赤い炎が見えていた。
家に戻り家の者が言うには、もう半日燃えているそうだ。時々爆発音が鳴り響く。屋上にあるレストランのガスボンベが爆発しているのだ。風向きが反対なので家に煙が来る事はなかったが、ミャンマー人の友人からは、延焼するかも知れないから、すぐに避難してくださいと電話があった。その後、消火されてその時の消防士達の頑張りや活躍は、テレビやジャーナルなどでも賞賛されていた。プレゼントを持ってくる人達もいたとか。感動するとそれを素直に形にしたい、ビルマ人の性質がよく現れていると思う。
その後建物は修復され通路は広くなり、館内は3、4階まで吹き抜け構造になり、各階に大きな外階段が4カ所も設置されて、安全に営業が再開されていたが、2016年再び出火した。今度は許可なくどこかの店が営業終了後に工事を委託していて、ガスバーナーの様な機材を使った結末が、小さな火の粉が可燃性の荷物に付着して、作業員も知らずにそのまま帰宅、その小さな火種が、またしても大火の原因になってしまった。
それで長い間建物は黒焦げのまま放置されていたが、再度修復する事を止めて、大きなビルを解体して更地に戻し、地下駐車場完備の大型複合施設の工事が、もうすでに始まって2年以上が経っている。
土橋泰子先生の「ビルマ万華鏡」の中に、1998年11月に市内2カ所にあった日本人墓地を一つにして、ヤンゴンの北部にあるイェウェイに移されたと書かれている。実はこの2カ所に埋葬されることを拒絶されていた人達がいた。明治10年頃から東南アジアに送られていた、「カラユキさん」と呼ばれる売春を生業の女性達は、故郷の土踏むこともなく、亡くなった後も差別を受けていたと、あるインド系の医者から聞いたのだ。現在スーレパゴダ通りに、ロの字型に作られた陸橋の階段付近に、今はスーレシャングリラホテルの、アネックスビルがある場所に、以前は小さな公園があった。その公園の前身が彼女達の墓跡があった場所だと聞いた。1998年の墓地移転に際して、彼女達の墓地の遺骨も移されたのだ。
さて話はこのタムウェのミンガラ市場の前身が日本人墓地の一つであると言う話だ。明治39年(1907年)ダウンタウンの33と34通りに居住していた日本人達の墓地として、役所から無償交付されたらしい。ミンガラ市場の西側に住んでいた日本人の友人が言っていた事だが、あの辺りの屋台の客は、横倒しになった墓石の上に腰掛けて、麺を食べてたりしてたらしい。漢字が彫られている墓石の一部が敷石にされていたとか、市場が工事中によく見られたとも聞いた。
1998年にイェウェイに日本人墓地が完成し、今のミンガラ市場の工事が終わるまで、営業していた昔のミンガラ市場は、そこから南に3、4分歩いた場所だった。私はまさに日本墓地が移転した1998年の3月から、ヤンゴンに住み出して、初めの3、4ヶ月はホテル住まいで、その年の7月からアパートに移った。最初に買った物が旧ミンガラ市場で買った扇風機だった。シンガポール製で14000ksだった。当時の物価から考えると、結構高かったと思う。(値段は日記に記録していた)旧ミンガラ市場は、小さな平屋の店が、ごちゃごちゃと店を並べて、迷路の様な庶民的な市場だった。
その旧ミンガラ市場は取り壊され、新しくビルが建造中、2階部分に建築が差し掛かったところで、理由は分からないが、建築がストップして20年以上経つ今もそのままである。
もう一カ所の日本人墓地の話は、また別の機会に話したいと思います。
追記 上のブログをアップして、10日くらい経つ。後藤氏宅に久しぶりにお邪魔した。そこで1994年に撮影された日本人墓地の写真を見せていただいた。周りは椰子の葉を葺いた竹の民家が数軒あるような田舎の風景で、とてもミンガラバー市場の周囲のビル群が4年間で林立したとは思えない。私が見他最初のタムウェ地区は、1997年すでに街だった。それで、タムウェの日本人墓地はどこにあったのだろう?後藤さんは、そこに大きなショッピングモールが建築されると聞いていたので、もしかしたら、ミンガラ市場から西に200mのユズナプラザかも知れない。ここはユズナプラザができた後でも、後ろに広大な空き地が広がっていたからだ。タムウェ地区もかなり広いので、まだまだ日本人墓地探しは続きそうである。
※日記で確認すると、1回目の出火2010年 5月
2回目 2016年1月9日 になってました。
ミンガラドン空港に近いところにある日本人墓地。奥左手側の「野澤某の墓」とか「ナカ子の墓」と書いてある墓石。
名前や苗字がなくてもきちんと改葬されて良かったねと言うべきか。明治44年と読める墓石はその当時石工がいたのか、カビの生えていない墓石にも謎が。
そして、従軍慰安婦の戦後に寄り添ってきた森川さんも亡くなり、慰安所がどこにあったのか、その後のみなさんの暮らしももうわかりません。
何かご存知であればお教えください。
コメントありがとうございます。前回も書きましたが、日本人墓地に1、2回しか行ったことがなくしかも15、6年前ですので、記憶がはっきりしません。移転に関して、かなり長い準備期間を取られていたと思います。ですから、墓石は日本から、文字を彫り込んで輸送された話も、又聞きですが聞いた覚えがあります。それからお墓を管理している家族がいる話も聞いていますので、墓石などもきれいにされていたのかもしれません。森川さんから従軍慰安婦さん達が働いていた場所は、一緒に回りました。1箇所だけ記憶が不確かな場所があります。ダウンタウンの北東で、鉄道がすぐ横を通っていました。どこかの大学の寮になっていて、見学させてもらった時、男子学生がアイロンをかけていました。後ははっきりしています。1つは旧ペグークラブです。2つ目は現在YWCAになっている建物です。もう1つは近々、youtube を始める予定です。もう1ヶ月前に動画撮影は終わっているんですが、その中で言及しております。カンドージ湖畔です。
お教えいただきありがとうございます。
森川さんとあちこち歩かれたんですね。壁に書かれた日本語の散文詩(?)も一緒に読まれたんでしょうか。
2年ほど前にYWCAに行ってみましたが、英語教室(?)になっているようでした。
そのまま残っている筈ないですよね。そんなの、勝手な感傷ですかね。
YOUTUBEを楽しみにしています。
戦後75年でしょうか⁉️ミャンマーは2011年の民主化から10年目ですね。ものすごいスピードで全てのことが変化してゆきます。悲しいんでいても何も始まらないので、今はこの変化を記録してゆこうと思っています。