今日は昨日のコースに少しだけ足を伸ばしてみた。3日続けて1万歩以上なので少々お疲れ気味ではあるが、愛犬と共に歩き続けた。HappyWorldがある公園を、カントンミン公園Kan Taw Mingala Garden と2009年版のヤンゴン市街地図 にある。今日は入り口の表記を改めてみたら、ウ・オツタマ公園という名前だった。日本についての本を上梓した僧侶だと思う。続けて、ウウィザラー(高僧の名前)通りを南下して、工事中のホテルオークラが少し見えた。そして先っぽの、小さな公園を横切り、シュエダゴンパゴダ通りに入り、北に向かったら。工事中のホテルオークラの巨体が前方に見えて来た。しかし、こちらがホテルの裏側だと思える。ここの場所の歴史を、つい最近意外な事実が判明した。私が知っていたのが、ここはJubilee Hall その後が、1991年から国軍博物館だった事だ。2005年の暮れに軍事政権がネピドーに遷都を発表して、国軍博物館も閉鎖された。その後が、今建築中のホテルオークラである。
Jubilee Hallは英国統治のビクトリア女王の、60年ダイアモンド婚を記念して1897年に建造された劇場であった。当時の英国人住民にとっての唯一の娯楽の殿堂だったのだろう。英国本土から、植民地だったインドを巡業し次にミャンマーにもやって来た一座が、ここでバレエやオペラ、楽団のパフォーマンスもあり、英国の名優Sir John Gielgudがハムレットを上演したという記録もあった。1948年ミャンマーが英国から独立すると、1950年から1970年まで、国立博物館として使用されていたが、1990年前後に取り壊された。その後に国軍博物館になったのだ。原因は、何かの本で、1970年の地震で壁に亀裂が生じたためと書いてあった記憶がある。
以上この場所の変遷は、一冊の本で分かった訳ではない。いろんな本の記述を照合してまとめて見たのだが、最近改めて土橋泰子先生の「ビルマ万華鏡」を再読して、ジュビリーホール以前の事が分かりかけて来た。一度読んでいたはずなのに、認識していなかった。
私はコンバウン時代の王様は、いずれもアマラプラとかサガインやインワなど内陸部に王都を開き、ヤンゴンには全く住んだことがないと思い込んでいた。1841年タヤワディ王が、この場所に仮宮殿を作り一族と共に移り住んだという。息子のパガン王子の仮宮殿は、その場所より北東にあったとあるが、そこは今でも国軍の施設のある場所なので、確認できなかった。しかし、王の一族がヤンゴンの街で暮らし出しても、現在のRakaingStateヤカイン州と、モーラミャインから南のTaninthary Regionはすでに英国領である。近くに敵がいる状況にすぐにアマラプラに引き返した様だ。その後、1852年に第2次英緬戦争が起こり、ヤンゴンを含む、ミャンマーの国土の半分は英国領となってしまうのだ。
おさらいすると、この場所はハンタワディ王の仮宮殿からジュビリーホールを経て、1950年から1970年まで国立博物館 建て替えて国軍博物館、 そして今建築中のホテルオークラという事になる。
家に戻ると12078歩だった。その後、日本のお弁当フェアが近所のカンタヤーセンターであっていたので、再び外出しておこわの弁当を買って来た。美味しかった。
合計 今日の万歩計 14438歩なり。歩き過ぎかも。
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