1997年の1年間、福岡の大学に通うミャンマー人留学生にミャンマー語を習った。うちでアルバイトの中国人留学生が3人いて、そのうちの2人が通う大学にミャンマー人の留学生(女性)がいるというので、2人に頼み大学の大食堂で会わせてもらった。そのミャンマー人の女学生が、「私でよければ教えますよ」と言われて、彼女から週一回1年間大学の大食堂での学習だった。そして、ヤンゴンに早めに入り半年間、ウィン日本語学校で、中国系のミャンマー人の女の先生と生徒私1人という贅沢な授業を受けて、この先生の勧めでヤンゴン外大の中級クラスから始まった留学生活だった。45歳になっていた。クラスでダントツの最年長だった。何ヶ月か経って最初のテストが行われた。思い返すと4年間で、スピーキングテストが実施されたのはこの時一回だったと記憶する。なぜその後実施されなかったのか分からない。
当時問題の日本人女学生が居たんです。彼女は名前は申し上げられないが、大きな組織からのミャンマー語を習得すべく送り込まれている優秀な人でした。英語もミャンマー語もすごいスピードで話すし、何が問題かというと、彼女はまず基礎クラスで1年学び、翌年に、彼女自身が上級クラスでやって行けると判断したんだろう、基礎から上級クラスに進級を希望したのだが、大学側としては、それは前例もないし認められなかった。しかし、彼女は先生達の意見も叱責も全て無視して、勝手に中級クラスに籍を置いたまま、上級クラスで授業を受け続けていたのだ。先生達ももう何を言っても聞く耳を持たぬ彼女に、そのことを黙認していたみたいだ。しかし、籍は中級クラスにあるので、試験は中級クラスで受けることになる。
席番号が学生に与えられて、スピーキング試験は席番号順に実施されていた。私の席番は最後だったと記憶する。廊下に椅子を運んで学生はそこで待機していた。教室に一人ずつ呼ばれて、3人の先生の前で、あらかじめ用意された文章を読まされ、それに対する質疑応答が行われる。先に終了した日本人学生達が、「やさしかった。ミャンマーで1番長い川エヤワディ川の事だった」とか「1年間に3つの季節がある」事など、小学2年か3年の教科書からの出題で、全員「簡単だった」と言っていた。自分の前の人が教室から出て来たので、私が教室に入っていくと。3人の先生がびっくりした顔をして、「えっ20人じゃないの?」と言うのだ。私の席番号は21番だった。つまりこれは後から分かったのだが、例の問題の女学生は、いつも上級クラスにいるので、先生達は20人分の試験問題しか用意していなかったのだ。それで、机の上のジャーナルという、週刊のタブロイド版の新聞が置いてあった。いつも一人だけいる男の先生が読んでいるものだ。というかその新聞に、その先生は小説を連載してたのだ。それで、男の先生が赤いペンで、とある記事を囲んで、「コレを読みなさい」と差し出された。
ジャーナルなど読んだことも無かったので、恐る恐る読み始めた。内容は「香港の空港でヒロインが逮捕された」と読めた。映画の女性主人公のヒロインと思い、その後の先生の質問も、何が何だか全く分からず、最後に私の方から「香港の空港でヒロインがどうしたんですか?」と聞いたら、「ヒロイン?ヘロインだよ麻薬を持った男が空港で調べられた記事」だったのだ。他の学生は小学2、3年の教科書からの出題で、私一人いきなり大人が読むジャーナルからの出題。酷すぎると思った。もちろん結果は、クラスでダントツの最下位だった。皆んなの評価は10点満点で5から7。私一人4だった。その結果に家庭教師を雇うことにした。27年ぶりの学生生活は、20代の学生達、30代の先生達、家庭教師に囲まれながら、4年間が過ぎて行った。劣等生ではあったものの、結構楽しかったし、自分なりに一生懸命勉強したので、今では良い思い出になっている。
最新コメント