コーミンコーチン通りを歩く
最近の新聞に、最後の王ティンボーミンのひ孫に当たるドーデウィタンズィン女史が、スーパヤラ王妃の最後の住まいは、コーミンコーチン通りのNo.24だと話されていた。
今日は犬と共にいつも通り、カンドーヂ湖南側の道を歩く。湖の西の端まで来ると、ロータリーを北に向かって足を進める。途中シュエダゴンパゴダの東門に続く参道より、黄金に輝くシュエダゴンパゴダを拝む。犬のリードを足で踏んで、両手で合掌する。カメラで撮影する時も同様だ。犬も慣れていて、いつもおとなしくしている。
次に湖の北側のナッマウン通りを横切り、そこからがコーミンコーチン通りである。
まずはチンジャンパレスに移るまで、国立のアートスクールState School of FineArtsがあった場所。今はドイツの文化交流施設が(ゲーテ インスティチュート)が使っている様だ。門は閉じられているので、ずーと中を覗ているとセキュリティーのおじさん2人が、何事かと近寄って来た。「ここのエイン(家)No.は何番ですか?」と尋ねると、8番という答えだった。「24番はどの辺りになりますか?」と聞くと、右手を上げて、「ずーと先だよ」と教えてくれた。お礼を言って、最初に聞いた8番が偶数なので、24番も道路の今いる側にあるという事だ。ヤンゴンの家ナンバーは、道の左右で奇数と偶数に分かれる。
それで、私はこの偶数を追ってゆけばいいのだ。すぐ隣のGolden Butterfly Hotel はナンバー表記がないが、おそらく12。つぎに小道の入り口に14、16という表記。家屋は小道の奥にあるという事だ。その次が日本人がシュエカンと呼ぶ有名なホットポット(鍋料理)の店。ここはものすごく広いが、18C という表記。次が18A。なんと次は26番まで飛んでいる。探している24番 は、18Aの裏手か? 26番が広いので、実は24、26番かも知れない。ここまでで、犬も連れていて、犬が植木のところでゲロったので帰る事にした。
12月6日 8870歩で終了。
翌日、7日
昼食食べて、1時半から、ちょっと曇ってあまり暑くないので、カンドーヂ湖北側の道、日本大使公邸や日本大使館があるナッマウッ通りを西に向かって歩く。日本大使館を過ぎて、大通りに出る。そこから右が、コーミンコーチン通り(KoMinKoChin Rd.)だ。
昨日のおさらいで番地を詰めてゆくも、やはり王妃の家があったという24番は飛んでいる。26番が一緒になっているか、その後ろがどうも24番の様な気がする。
道の反対側にバハン地区の警察署がある。昨日からここで聞こうと思っていたので。道を渡って署の前に銃を抱えた2人の警官に尋ねてみる。田舎の人みたいでここの番地のことも分からないらしい、でも親切にわかる人に署に入って行って聞いてくれた。昨日の通りすがりの坊さんと同じ意見だ。ウィンガバー通りが昔の、コーミンコーチン通りだと言うのだ。聞きにいっている間、若い警察官は椅子を勧めてくれた。2人の警官にお礼を言って、
無駄と思いつつ、ウィンガバー通りに入っていった。
昨日聞いたら、僧侶のためのサンガー病院が38番と言っていた。私は60歳になる前にこの病院で、白内障の手術をしたのだ。日本に帰国して再手術をした話は、またの機会にする事にして、38を横目に、丁度裏手に長い個人宅の通路があって、その奥の門が開いた。門を開けている女性を目指し、ズンズン私有地の道を入って行って、「ここは何番ですか?」と聞くと、車を出すために門を開けたところみたいだ。「ここは37番よ。24 番ね?ちょっと分からないわ。」と丁寧に答えてくれた。すると後ろの方から、旦那さんだろう、小柄だが感じの良い男性が近寄って来て、「日本人ですか?」と日本語で聞かれた。こんなところにも日本語ができる人がいる事にも驚いたが、「ヤダナボン王朝の最後のティーボーミンの王妃、スーパヤーラの家を探しているんです。24番らしいのですが?26番しか見つからなくって、昨日と今日2日も探しているんです」というと、探し求めていた答えを、偶然ここで得ることが出来た。
答えは、昨日も最初に聞いたNo.8元国立のFainArts美術学校があったところだ。チンジャンパレスに学校が移転した後、2014年から2016年美術学校の校長に個人的に絵を習ったのだ。チンジャンパレスは、「ヤンゴン遺産の建造物30」にも選出されている歴史的建造物で、中国系のリム チンソンが、チンジャンパレスとこのNo.8の2つの土地の所有者だと聞いていて、あるミャンマー研究者の方が、No.8が最後の王妃スーパヤラの住居だったと言われていたのだ。
その37番の偶然お会いできた、これから車でお出かけになる前に立ち話をした男性が、
「26番の土地は、私の祖父が住んでいた家があった所です。24番とかよくスーパヤーラの家と、昔から間違われていたんです。祖父が言うには、今のNo.8が最後の王妃の家があった場所です」と言われたのだ。本当にこの道を通るのが、早過ぎても遅くても出会えなかった幸運に感謝である。
長居も出来ないので丁寧にお礼を言って、ウィンガバー通りを日本大使館の横に出るまで歩いていると。Golden Butterfly のマークが付いた門扉が左側に見えた。8番の横にあったホテルの裏側がこんなところまで続いていたんだと思うと、(Google の地図で確認)No.8の王妃の土地もずっと広かったのではないだろうか?
100%の確証はないが、No.8が正解だと思いたい。
余談になるが、もう一つエピソードがある。最後の王妃スーパヤーラは、31年間インドのラトナギリ (ミャンマー名称ヤダナギリ)に流刑になり、ティーボー王の死後、帰国が許されたのだが、このコーミンコーチン通りの家にも、それほど長く住んでなかったと思う。確か9年後1925年に亡くなっている。インドから戻られて、一生涯働くことや自分でお金を稼ぐ事に無縁の生涯であったと思われる。私の知人の友人宅に「王妃が借金の返済を待ってくれと言う手紙が残っている」と言う話を聞いて、「その手紙を見せてくれないか?」とお願いした。数日待って、「王妃の恥は、ミャンマー国の恥だから、お見せできない」という答えが返って来た。
日本大使館の前から、偶然だが8番のバスで家の近くのバス停まで乗車。
12月7日 朝の犬との散歩と合わせて、今日も1万歩超えた。
余談の余談
24番という番地は、最後の王のひ孫に当たるドーデウィタンズィンが、最近の新聞のインタビューで答えられていたのだ。9年前から3回ほどお会いしたことがあるが、最後の王の四女の四男の娘さんで、綺麗な方だった。初めてお会いしたのが、2011年の東日本大震災の後だったので、津波の被害などよく知ってあった。確かその時は雑誌の編集長だったと思う。祖母にあたるティーボー王の四女が、英国統治政府に嫌われて、一家はモーラミャインに移住させられて、彼女の親もスーパヤーラには会ったことがないそうだ。それにティーボー王の父親のミンドン王の事なども、「私たちは何も知らないのよ」「歴史研究者の人の方から、私たちも教えてもらってるのよ」と言われていた。その時も、スーパヤラの最後の住まいの事も聞いたが、「コーミンコーチン通りという事しか、分からないの」と仰っていたので、その後、誰かが24番と不確かな教えたのかも知れない。
最後にもう一つの可能性は、何人かの人が言ってあった、日本大使館の横からコーミンコーチン通りに抜けるウィンガバー通りが、昔コーミンコーチン通りと呼ばれていたそうである。その時の家ナンバーが24番だった可能性も残っている。
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