In search of an old Japanese cemetery in Yangon
20年ほど前から、うちの近所のミンガラ市場が旧タムウェ日本人墓地と信じていた。
市場の近所に住むんでいた日本人が、日本の墓石に腰掛けて、ミャンマー人がモヒンガーを食べていたとか、市場建設の敷石に、墓石の漢字混じりの石がゴロゴロしているという話から。1998年にイェウェイに2つの旧日本人墓地が集められ、新しい日本人墓地が出来上がった。その時期にミンガラ市場が建設中だったので、そして1999年に、昔のミンガラ市場から200mほど北の今のミンガラ市場に移転したと、全てが合致するので信じて疑わなかった。
ところが友人のG氏が、旧タムウェの墓地に、1994年に行ったことがあると前から言っていたのだ。その話だと墓地の周りは何もなかったそうだ。1998年に私がこのあたりに住み出した時、すでにミンガラ市場の周りはビル群がびっしり建っていた。わずか4年でそこまで変化するはずもないので、それでは本当の旧タムウェ墓地はどこだったのだろうか?
G氏が日本人会か日本大使館に聞くのが1番だと、アドバイスをくれた。それで、今の日本大使館にはヤンゴン外国語大学の時の同級生が居るので、思い切って尋ねてみた。案の定日本からお偉い方がお見えとかで、その御世話で多忙だったそうで、一段落した後で丁寧に2つの旧日本人墓地の場所を調べて報告してくれた。本当に持つべきものは友人ですね。
それと土橋泰子先生の著書「ビルマ万華鏡」の240pを何度も読み返した。そこに旧日本人墓地のことが書いてある。墓地のために土地を頂けるという中国人の助言を頼りに、日本人達も当局に、墓地の為の土地をお願いしたところ、ダウンタウンの33、34通りに住む日本人は、1906年にタムウェ地区に、39通り日本人には、1909年にサンチャウンのチュンドー通りに、それぞれ1エーカー(4,047㎡)無償交付されたと書いてあった。
そして、本日は上記の友人の報告書を頼りに、朝9時半から車を用意して新旧3ヶ所の墓地巡りを開始した。旧タムウェの墓地は、びっくりするほどすぐに到着した。多分10分位だろうか?
私の家も同じタムウェ地区なので、近いのは当たり前かも知れないが。
カンドーヂ湖畔の家から北に向かい、旧競馬場(現在はサッカー場のKyai kkasan play ground )の東の道路から、Lay Daunt Kan Rd.を東に進むと、すぐに左手に有名なSuperOne が見える。旧タムウェの日本人墓地はその真前です。目隠しの壁が続いていて、入り口には警備員が立っている。カメラを抱えながら「ここは昔日本人墓地だよね?」と尋ねると、「日本人ですか?中に入って撮影してもいいですよ」と言われた。私のような物好きが時々位尋ねてくるのかも知れない。そして、雑草が人の背丈より高く生い茂っている中に車道が作ってある。表の看板では、中国のホテルが建築中となっているが、それに墓地が移転してからも、20年以上が経っているのに、建設工事が何も始まってはいない。スタッフのための宿舎も8割の部屋に錠前が下りている。私の目的は、旧タムウェ墓地なので、あまりホテル建設のことは聞かなかった。何か大きなトラブルがあって建設が中断しているのだろう。
G氏が1994年に来た時には、まだ墓石などがたくさん並んでいて、隣は中国人の墓地だったそうだ。周りに何もないというのも、隣のILBC(英語教育で有名な学校で、ヤンゴンだけでも7、8校。ミャンマー全体で30校。生徒数は13000人を数える。)
最初の本校が開校したのが1995年で、しかも横にあるlLBC は本校ではないので、G氏が来た1994年には無かっただろうから、この辺一体は何もない原野だったそうだ。
それからもう一つ事実が判明した。G氏は、元からゆきさん(売春稼業)達の墓もあったという。34通りに元その商売をしていて、結婚して子供も成しているご婦人が何人か住んでいたという、それで39通りの人達は、それを嫌って別個に墓地を作ったのかも知れない。
次に向かったのはイェウェイの現在の日本人墓地である。20年以上もヤンゴンに住んでいるが、ここに来るのは2回目である。一見公園に見えるきちんと整備された墓地である。管理人の家族が敷地内に住んでいて、日本人会が管理しているそうだ。
その中にも入って左側の列に、からゆきさん4名の墓石があった。それと左の奥の列に、薄っぺらい石なのかよく分からない、焼き物かもしれない、墓碑銘が消えている、もしくは最初から無記名かも知れない小さな墓標が並んでいたのには、少し胸が痛んだ。
ある方から日本人墓地に入れない人達がいて、別の場所にひっそり祀られていた墓も、1998年に、こちらの墓地に一緒に葬られたと聞いた。死んでからも差別されていた人達もいたのだ。
また戦死者の遺族が建立した慰霊碑も、きちんと移し替えられていた。
あまりに墓石が多すぎるので、私の出身地の福岡県人と刻まれた黒御影石の慰霊碑にのみ、線香をあげてお暇を告げた。
最後は、サンチャウン地区の、チュンドー通にあった。39通りに住んでいた日本人の墓地。長い間忘れ去られていて、戦後亡くなったビルマ兵の墓なども同じ場所に葬られて、タムウェの墓地との混同もあり、荒れていたらしい。残っていた慰霊碑や墓石も、イェウェイの日本人墓地に移されたそうだ。現在はこの地は、麻薬撲滅記念博物館になっている。入り口で「写真撮ってもいいですか?」と聞くと、まだ若い警備員が、「中に入っても構いませんよ」と言われたが、墓地の名残りも全くなさそうなので、博物館の写真だけを撮って帰って来た。
長年解らなかった事が、今日はかなり解明できて何かとてもホッとしている。
私もあの墓地に眠ることになるのだろうか?いや河に散骨でも風葬でも決めたら、周りの者に早めに遺言しておこうと思った日にもなった。日本に身内は妹一人になっている。私は日本の墓には入らないと、妹には告げているし、亡くなった家族のお位牌5つは、私がヤンゴンに持って来ている。私の火葬の時に一緒に焼いてもらうつもりでいる。ほとんどミャンマー人はお墓を作らないし、戒名もなければ、一周忌も墓参りも無い。私もそれでいいと思っている。さてさて本日は最後の人生の終活を考える日にもなった。
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