毎日1万歩 「思い出のランマドー通りを歩く」
今日の歩きは5500歩程度ですが、朝方犬との散歩で6800歩程歩いています。
ランマドー通りは、非常に懐かしい場所です。1999年の4月から2001年の3月まで2年間過ごした街です。タクシーでストランド通りの、中国寺の前で止めてもらいました。コロナ禍で中には入れませんが、道教の寺(Tao Temple )と聞きました。1863年に建立されてますが、古くなったので1903年に福建人の商人たちの寄付で再建されています。この辺りは中国人街ですが、広東出身者は職人が多く、福建人は裕福な商人が多かったようです。タイのバンコクの中華街に比べると、かなり地味な印象ですが、1960年代に時の最高権力者のネーウィン将軍の、インド人と中国人を追い出す政策により、多くの人が母国に帰国したそうです。
ストランド通りからランマドー通りに入ると、すぐ左側に大きなビルが3つ続いています。この3つをニャウンピン(インド菩提樹の意味)市場と言います。川べりから3つ目の白いビルの4階に住んでいました。当時はヤンゴン外国語大学にここから通っていました。45歳からの留学生でしたが、私の第2の青春だった場所です。
次にやって来たのは、ランマドー通りとマハバンドゥーラ通りとの交差点です。
ここは十字路の4つ角すべてが金の店です。付近にも金の店が密集しています。
20世紀の終わりに3度(1964年1985年1987年)も廃貨があったのです。政府が1985年は100ks 50ks 20ksをいきなり廃貨にしますと発表したんです。ある知り合いの親戚は、家を売って頂いた札が全て廃貨になり、家も金も失くしてしまって頭がおかしくなった話とか、ミャンマー中にそんな人が沢山いた訳です。それが2年後の1897年に、新聞誌上で「廃貨をまた実行すると言う噂があるが、実行しない」と発表して、国民が安心した後に、75ks 35ks25ks札を廃貨にしたんです。こんな国家がありますか?それが多くの国民の怒りをひきおこし、1988年の反政府の民主化運動に発展して行ったストーリーです。
それでミャンマーのお金持ちは自国の通貨を全く信用せず、ミャンマーks札を金に変えているので、中華街に金の店が多いのはそんな深刻な理由があるのです。
続いてランマドー通りを北に向かい歩いて行きますと。右手にタンゼイがあります。ゼイは市場。タンは牛の舌ではありません、鉄の事です。ですから金物市場でしょうか?飲食店に必要な物が全てここでそろいます。また珍しく海鮮の魚やエビ、イカなどを扱う鮮魚市場でもあります。
今年2020年の2月19日にこのタンゼイで大火事が発生して、多くの人がテレビやネットのライブ放送でこの火事の様子を、消防士が窓から住民を救い出す様子や、屋根を壊し、隣のビルの屋根に避難させる様子を、見た国民も多いみたいです。私も自分の絵本を売ってくれている書店がこのビルに入っているので、携帯のネットで一日中見てました。エレベーターに閉じ込められていた人たちも無事救出されて、高齢で体の弱い14、5人が直ぐに病院に搬送されて、全部で85名とペット1匹も無事全員救出されました。出火は3、4階の倉庫からで原因は分かっていないようです。多分漏電かも知れません。このビルも私がヤンゴンに住み出した20年以上前から建っていますから、時々悪い業者が、予算をいただいておきながら安い古い電線などを配線しているケースなどがあります。電線は直接見えませんから、建築や店舗の内装などは、信頼できる業者選びが必要です。
さて続いてランマドー通りの1番北になります。ここにヤンゴンジェネラル病院があります。英国時代からある巨大な病院です。通り13本分の幅があります。ここにも思い出があります。10歳から育てていた里子のガドンと従兄弟のアウンウィンゾーが、ナガーニー(赤い竜)というチンピラのグループ6人に暴行を受けて、担ぎ込まれたのがこの病院でした。その里子も2年前に結婚して、先月女の子が生まれました。来年には30歳になります。私の「子育て失敗の記」里子の事はまた別のブログで詳しく書く予定です。
今回2回目の撮影の時、この英国時代に作られて「ヤンゴン遺産30」にも選出されている病院の建物を内部に入って撮影していたら、コロナの患者さんももしかしたら沢山入院されていたのかも知れないし、消毒液のきつい臭いが漂っている中、出口を聞いた警備員に、「撮影したものを消せ」といきなり言われて、「買ったばかりのスマホで、消し方が分からない」と言うと、メカ音痴で本当にわからなかったのだが、その警備員のお兄さんも、分からないらしく「いいから行け!」と言われて、出口に向かったら、もう一人今度は体も大きい怖そうな医療従事者らしき大男が、「撮影はダメだ!」と怒鳴られ、「何も撮影してません」と言って素早く出口から逃げた。笑
外に出ると見えるのがHoly Trinity Cathedral Church 三位一体教会です。
キリスト教の一派で神と子と精霊の名において、、、で有名ですね。子と言うのはイエスキリストの事です。第2次世界大戦の時に空襲でステンドグラスなどの被害はありましたが、分厚い壁が戦禍から守ってくれたようです。戦時中に日本軍がここで、味噌や醤油を作っていたと聞いた事があります。分厚い壁に囲まれ館内はひんやりとして居るのが、発酵食品を醸造するのに適していたのかも知れませんね。余談ですが、アウンサンスーチーさんの父親のアウンサン将軍は、海南島で日本軍から軍事訓練を受けている時、この味噌汁が大嫌いだったそうです。私の知るミャンマー人も嫌いな人が多いですね。
さて最後はスーレーシャングリラホテルの裏通り。32通りにある小さな「平和」という店で、日本食材のみりんや味噌などを買いました。そうして帰ろうとボージョーアウンサン通りを目指して歩き出したら、元鉄道省の場所に大型プロジェクトの現場が見えて来ました。ここもヤンゴン遺産30に選ばれています。元鉄道省の建物は白い補助材で囲まれていて、どうのように仕上がって行くのでしょうか?ヤンゴン中央駅も以前から不思議だったのが、大きな駅というのは街に向かって出入り口があるのに、ここの駅はダウンタウンに背を向けて北側に出入り口があるのだけど。大型複合施設ができたら、ダウンタウン側にも出入り口ができるのではないかと、密かに期待しております。前日はここから友人の家まで歩いたけど、今日は買い物もした事だし、タクシー拾って帰りました。朝の散歩と合わせると12300歩でした。
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